2026年3月13日に劇場公開され、高い評価を得ているアニメ映画『パリに咲くエトワール』。その描写の繊細さ、緻密さについてはTwitter(旧X)でもすでに大きな話題になっていますが、絵を描くためにパリに渡ったフジコを取り巻く絵画的な環境とはどのようなものだったか、という点で解説している人はいまのところあまり見かけません。そんなわけでここでは、フジコがいた時代のパリでどのような絵画が生まれ、どのような人々が活動していたのかをざっくり解説していきます。これを読めば、アニメがより楽しめるようになるかもしれません。
半端に美術の歴史を学んだ半可通なので、専門家からはツッコミどころ満載かもしれませんが、どうぞお付き合いくださいませ(予防線)。
あ、当然のことながらアニメ中の描写についても触れるので、ネタバレが嫌だという方は『パリに咲くエトワール』視聴後にご覧くださいね。
前史1:絵画の常識とされてきたもの(~19世紀前半)
さて、フジコがパリにいた1910年代という時代は、20世紀の美術が一気に花開いていく、まさに激動の時代です。そのため、当時の絵画の潮流を理解するためにはそこから時代を遡り、19世紀前半より以前の西洋絵画の様子から押さえておいたほうが理解しやすくなります。
“理想像”を追い求めた15世紀のルネサンス以降、さまざまな潮流がありつつも「形をとらえて描画すること」「正確な色を塗ること」を並行してキャンバス上で展開する、というのがおおむね西洋絵画の世界の中心にありました。そして、産業革命以前は当然画材の大量生産などということは不可能であり、絵の具に至っては必要になるたび顔料(色のついた粉)と溶剤、定着剤を混合して作らなければなりません。そうすると荷物の量は基本的に「馬車◯台」といったように旅行レベルのものになり、今のように気軽に屋外で絵を描くようなことはできませんでした。そんなこともあって屋外でできるのは軽いスケッチが基本、絵そのものは拠点となるアトリエで仕上げるものでした。まず形態をとらえてから色彩、という流れだったことから、まず白と黒の階調で形と表面の陰影を描き(グリザイユ画法)、そののち薄めた絵の具を重ねて色をつける(グレージング)ような、両者を分離するような描写方法も基礎の基礎でした。
また、絵の具をいちいち自作する必要があるということはそれに時間をとられる、または助手が必要ということで、いずれにせよ高額な人件費がかかります。この時期、絵画は「宗教(おもにキリスト教)上重要な場面を描き出し、教会や宮殿を飾る」「王侯貴族や金満家の依頼で描く肖像画」ようなものが非常に多かったのですが、先述のような理由で絵画を描くこと自体が非常に高コストの行為であったことも、無関係ではないでしょう。
ドミニク・アングル 1810
ルーブル美術館蔵
前史2:産業革命が絵画を身軽にした(1830年代~)
状況が変わってくるのが18世紀後半から19世紀にかけての産業革命でした。大量生産、大量消費時代の幕開けともいえますが、それは絵画の世界にも影響を及ぼしました。たとえば使い捨てのチューブ入り絵の具。現在我々が「絵の具」といわれて即座に連想するこれも、19世紀、産業革命以降に誕生したものです。こういったコンパクトで手軽に使える絵の具に加え、それ以外の画材も統一規格化されたり、手作りよりも安くなったり軽くなったりして、屋外に画材を持ち出すのにカバンひとつで済む時代がやってきたのです。
これによって画家たちは一気に身軽になりました。助手もいらない、馬車もいらない。親方と弟子による大規模作業であった絵画は個人単位で描けるようになり、これまで顧みられなかった「市井の人々」のような題材に注目が集まったり、専門教育を受けなくとも絵を描き、塗ることができるようにもなりました。フジコが幼少の頃から絵を描き、色を塗ることができていたのも、こういった時代の流れがあったからこそなのです。
前史3:絵画はついに自由になった、印象派の誕生(1870年代~)
産業革命期には写真機、カメラも誕生しました。この機械は形態を正確に捉えるという点では絵画よりもはるかに上手です。この時点で絵画は世の中のものの形を正確に捉えて記録するという役目を失いましたが、それは同時に形を正確に捉えなければならない、というくびきから完全に解放されたということでもありました。そして、この時代は自然哲学の一部が科学、そして工学として発展していく時代でもあり、化学合成顔料というものも生まれました。天然の石などを砕いて作った顔料よりも純粋な色だったり、天然には存在しない色だったりといったものが生まれ、鮮やかにキャンバスを彩れるようにもなりました。もっといえば産業革命によって登場した鉄道網は19世紀なかばになってかなり広い範囲をカバーするようになり、画家たちは気軽に外出し、屋外で絵を描けるようにもなっています。これらが合わさり生まれた流れのひとつが印象派です。
その登場のきっかけのひとつは、屋外で、移ろいゆく自然の景色をキャンバスに直接描いていた人たちのなかから「色というものは環境で変化するものであって、正しい色なんてものは無いんじゃないか」と気付いた人が現れたことでした。彼ら(そして彼女ら。女流画家が本格的に登場し始めるのもこの時代からです)は眼の前に広がる景色から受ける色彩の印象そのものをキャンバスに描き出そうとしました。その過程では複数の純色をこまかいタッチで並列配置して視覚上混ざり合って見える「併置混合」や、基本色と補色の配置で光と影を表現する「補色対比」といった方法が編み出されます。彼らのなかには光の色は混ぜると明るくなる、絵の具の色は混ぜると黒くなるという根本的な仕組みの違いを乗り越えようとした結果、黒はあまり使わないようになった人たちもいました。こうしてさまざまな試行錯誤が繰り返され、正確な形や正確な色を描かなければいけない、という旧来の絵画の“常識”は必ずしも従う必要のないものとなり、ついに自由な絵の時代になったのです。
ここからは余談です。こういった印象派の活動はパリを中心に行なわれていましたが、「売れる絵」ではなく「表現手法の追求」のために活動する画家たちのなかにはあまり裕福でない人もおり、家賃の高いパリ中心部を避けて郊外に住んだ人たちもいました。画家同士が交流しやすくするためにその住居は一部地域に固まることがあり、画家の町が形成されていきます。『パリに咲くエトワール』劇中、フジコが移り住んだモンマルトルの丘がそのひとつです。
前史4:絵画としての表現をさらに求めて(1890年代~)
絵が自由を手に入れた印象派のあとも、絵画表現手法の探求は終わりません。19世紀最末期には新印象派やポスト印象派などと呼ばれる人たちが現れました。彼らは印象派の流れを引き継ぎつつ、より突き詰めようとした人たちです。たとえば新印象派の中心人物とされるジョルジュ・スーラは色の見え方を理論的に再構築することで点描という方法に行き着き、鮮やかな色彩と形態の両立を実現しました。ポスト印象派と呼ばれるフィンセント・ファン・ゴッホやポール・セザンヌといった画家たちは共通した表現方法を持っていたわけではありませんでしたが、いずれも印象派の流れを受けて、その表現手法を取り入れ独自に発展させていった人たちです。曖昧な言い方にはなりますが、これがフジコのいたパリ、そしてその後「20世紀の美術」と呼ばれるさまざまな表現方法につながる非常に重要な要素となってきます。
フジコの時代:絵が表現になり始める時代(1910年代~)
さて、ようやくフジコがパリにいた時代に追いつきました。この時代の最先端絵画は新印象派、ポスト印象派の時代からさらに一歩進んだものになっていました。前段でちらっと名前を出したセザンヌがこの時代に大きな影響を与えており、物体の形状を理解し分解、平面上で再構成するような方法が現れました。劇中フジコが「いろんな人の絵を見て勉強したら、どう描けばいいかわからなくなった」と慟哭するシーンがありましたが、そこで名前の出たパブロ・ピカソ、ピエト・モンドリアンなどがそういった画家の代表例であり、ピカソはキュビスムと呼ばれる、平面上で立体を再構築し表現する方法を思いつきました。モンドリアンは物体の形態を分解して再構築する方法を試行錯誤した結果、この時期に抽象絵画の入口にたどり着いています。
このようにして各自が表現方法を追い求め、「絵そのものが表現になる」時代がやってきます。そういう、絵画史上トップクラスに大きな変化のあった時期が1910年代のパリという場所です。それを直接見聞きしたフジコが絵が描けなくなるのもある意味仕方のないことともいえますし、それとともにフジコが最新の絵画表現を積極的に取り入れる、非常に勉強熱心な様子を表しているともいえるのではないでしょうか(それも、おそらくですが義叔父の支援がなくなりモンマルトルの屋根裏部屋に移ってからも多少は絵を描けていたことから考えるに、生活費を自分で稼ぎながらも絵の勉強はしっかり続けていたのでしょう)。
フジコ後の時代(1920年代~)
さて、フジコは自分だけの表現を手に入れた瞬間に日本に帰ってしまうわけですが、そのあと、第一次世界大戦終結後のパリではどんな絵画が生まれていったのでしょうか。基本的には1910年代に起こった流れを引き継ぎ、「絵そのものでなにかを表現する」ための模索が続きます。そこから抽象絵画であったり、シュルレアリスムであったりといったものも生まれて20世紀の美術、現代美術へと発展していくわけですが、そういった新時代の絵画表現に挑戦する人たちが1920年代にフランス国内、あるいは国外から多数パリに押し寄せます。彼ら彼女らは「エコール・ド・パリ」(パリ派)と呼ばれ、第二次世界大戦までの戦間期、パリはまさに芸術の都として繁栄したのでした。そして、パリに集まった芸術家のなかにはのちにレオナール・フジタと呼ばれる男、藤田嗣治(ふじたつぐはる)がいました。察しのいい方ならもうお気づきでしょう。継田フジコ(つぐたふじこ)の名前の元ネタです。
藤田は日本にいたとき東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)西洋画科に所属していました。しかしそこで彼の絵はあまり高い評価を得られていませんでした。というのも当時の東京美術学校西洋画科は、黒田清輝らの派閥が力を持っていました。黒田は印象派から新印象派、ポスト印象派に移り変わるくらいの時期にフランスへ留学していた人物で、そのため黒を武器のひとつとして使う藤田の絵を“印象派的でない、つまりこれからの洋画にふさわしくない”と評価したのです。これに不満を持っていた藤田は1913年、つまりフジコとほぼ同時期にフランスに渡り、芸術の本場で修行を始めました。この時期のパリは前段で述べたように、すでに典型的な印象派からはかなり離れ、次代の、次々代の表現を模索していた時期です。藤田も試行錯誤、七転八倒の末乳白色の下地と細線による輪郭、彩色は最小限に留めて黒で締める、といった画風を確立してパリ画壇において高い評価を得たのです。













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